今日もどこか隣の村が燃える。炎上、という現象の移り変わりについて思うこと

ここ数年社交的なヲタクが増えている。

 

ファッションヲタク

ライトヲタク

 

なんて言葉が使われ出したのもここ数年に思う。

 

これまで、ヲタクと言えば日陰の存在で、スクールカーストの下の方で息を潜めて生息してきた存在が今や、リア充に侵略されつつある。

 

数年前までは非リアの代名詞だったヲタクが、リア充化しているのである。

森の奥深くの湿った石をひっくり返したところにくっついているダンゴ虫くらいの存在にまで日の光が差し込み白日の下に晒されることを拒めない。

避けるには更なる森の奥深くに逃げ込むか、ないしは開き直るという進化を遂げるしかないのかもしれない。

 

私見だが、ニコニコ動画というコンテンツの登場がそのムーブメントを牽引した要因ではないかと思う。

連日投稿されるMADやコラの類、初音ミクの登場。

当時の利用者は大学生中心に広がり、そのコミュニティの中でさらに輪を拡げていずれリア充にも知れ渡った。

 

ヲタク文化というコンテンツの面白みが、一般人にも波及していったきっかけではなかろうか。

また、アフィを始めとした広告収入目当てに業者が群がり始めた時代でもある。

にちゃん(今はごちゃんだが)まとめサイトが生まれては消えていったのもこの頃だ。

今までアングラでしか語られなかったVIPの祭り、ヲチや、スネークと言った河岸の火事を誰でも気軽に読めるようになった。

それまでのにちゃんは、素人お断りのような排他的な空気があったように思う。

 

「閲覧の仕方が分からない」「怖そう」「よく分からない言葉で書かれている」

 

こういった理由から閲覧しようなどと思う一般人は少なかった。

この時代までは、限られたコミュニティに属する人間だけの場所だったため不文律が守られてきた。

不条理過ぎる案件ではないもの、未成年の若気の至りであるものは炎上対象にされにくかった。(ゼロだったかと言われればそうではないが)

 

ヲチの対象をむやみに凸したりする者は叩かれたし、今よりずっと少なかった。

凸も充分に泳がせてから行い、引き際も鮮やかだった。

 

それが電車男の登場により、事態が変わってしまった。

 

ここ数年の凸率の高さたるや、語るに心苦しい。

凸に愛がなくなったのもこの頃からのように思う。

ヲチ対象を見極めたりしなくなった。

未成年者相手でも容赦がなくなった。

特定班の特定対象が無差別になった。

 

バブル崩壊後、生活にも心にも余裕のない人々が増えた。苦しい暮らし、ビジネスマンとして求められる高い要求にコミットメントしなければならないというプレッシャー。

社会のなかでサバイバルを続けるうちに、相手への配慮や温情すら削ってしまったのかもしれない。

 

インターネットという匿名の海のなかで、抑圧された憤りは牙を剥く。

正しいことを正しいと必ずしも訴えることの叶わない社会の歯車が、匿名のなかではそれが叶う。

公的秩序、法令遵守正しさの枠の中で窒息しそうなくらいの監視社会になってしまった

ヲタク文化にもこれは波及している。

 

公式のお目こぼしでやってきた二次創作というアングラ界隈もライトヲタクがやってきて変わってしまった。

ライトヲタクは己の文化しか知らない。

トレス、パク、商標や著作権権利関係に逸脱したものを吊し上げ、相手側が謝罪しても許さない。

相手側がとっくに膝をついて悔い改めても、焦土になるまで問題を提起し、拡散し、インターネットアーカイブに未来永劫残す。

 

本当に個人的な意見だが

二次創作はスタートからし著作権違反というグレーもグレー、なんならアウトな領域である。

しかし、昨今は特段に厳しく違反者を吊し上げ、謝罪後も必要以上に燃やし続け、薪をくべる手を休めない。

アングラでこじんまりとは行かなくなった。規模が大きくなりすぎた。

一人の違反でジャンル全体が死ぬ時代になった。

 

適度な無関心さや、スルースキルの欠如

さじ加減の分からないリミッターの壊れた玩具みたいだ。

今日もどこか隣の村が燃える。明日は自分の村が燃えるのかもしれない。